明日のナージャ 第一次 大戦


17,783 characters. RA、1874年11月30日 - 1965年1月24日)は、イギリスの政治家、軍人、作家。, サンドハースト王立陸軍士官学校で軽騎兵連隊に所属し、第二次キューバ戦争を観戦し、イギリス領インド帝国でパシュトゥーン人反乱鎮圧戦、スーダン侵攻、第二次ボーア戦争に従軍した。1900年のイギリス総選挙にオールダム選挙区から保守党候補として初当選(当時:25歳)。しかしジョゼフ・チェンバレンが保護貿易論を主張すると、自由貿易主義者として反発し保守党から自由党へ移籍した。ヘンリー・キャンベル=バナマン自由党政権が発足すると、植民地省政務次官としてイギリスに併合されたボーア人融和政策や中国人奴隷問題の処理など英領南アフリカ問題に取り組んだ。アスキス内閣では通商大臣・内務大臣に就任し、ロイド・ジョージとともに急進派として失業保険制度など社会改良政策に尽力、この体験を通じて暴動やストライキ運動に直面し社会主義への敵意を強めた。, ドイツとの建艦競争が激化する中、海軍大臣に就任。第一次世界大戦時には海軍大臣、軍需大臣として戦争を指導した。しかしアントワープ防衛やガリポリ上陸作戦で惨敗を喫し、辞任した。しかしロイド・ジョージ内閣で軍需大臣として再入閣。戦後は戦争大臣と航空大臣に就任し、ロシア革命を阻止すべく反共産主義戦争を主導し、赤軍のポーランド侵攻は撃退した。だが、首相は干渉戦争を快く思わず、植民地大臣への転任を命じられ、イギリス委任統治領のイラクやパレスチナ政策、ユダヤ人のパレスチナ移民を推し進めた。初の労働党政権となったマクドナルド内閣に反社会主義の立場から自由党を離党し、野党に下落した保守党へ復党した。スタンリー・ボールドウィン内閣では財務大臣を務め、新興国アメリカや日本の勃興でイギリス貿易が弱体化する中、金本位制復帰を行ったが失敗し、政権交代が起き再びマクドナルドの労働党政権の復帰となった。, 1930年代には停滞したが、インド自治政策やドイツナチ党のヒトラー独裁政権への宥和政策に反対した。第二次世界大戦を機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰したが、北欧戦で惨敗。しかしこの惨敗の責任はチェンバレン首相に帰せられ、1940年に後任として首相職に就き、1945年の勝利達成まで戦争を主導した。西方電撃戦、ギリシャ・イタリア戦争、北アフリカ戦線でドイツ軍に敗北するが、バトル・オブ・ブリテンでは撃退に成功した。独ソ戦開始のためスターリンのソ連と協力し、またルーズベルト大統領のアメリカとも同盟関係となった。, しかし1941年12月以降の日本軍参戦後に、東方植民地である香港やシンガポールをはじめとするマレー半島一帯のイギリス軍敗退による相次ぐ陥落やインド洋からの放逐などの失態を犯した上に、ドイツ軍によるトブルク陥落でイギリスの威信が傷付き、何とかイギリスの植民地として残っていたインドやエジプトでの反英闘争激化を招いた。, 1944年6月にノルマンディー上陸作戦で攻勢に転じたものの、1945年5月にナチス・ドイツが降伏すると労働党が挙国一致内閣を解消し、同年7月の総選挙でアトリー政権が成立し保守党は惨敗した。第二次世界大戦で戦勝国の地位を獲得した中、チャーチルは野党党首に落ちたものの冷戦下で「鉄のカーテン」演説を行うなど独自の反共外交を行い、ヨーロッパ合衆国構想などを推し進めた。イギリスはアメリカとソ連に並ぶ戦勝国の地位を得たが、大戦終結後にアトリー労働党政権がインド等の植民地を手放していくことを、帝国主義の立場から批判し植民地独立の阻止に力を注いだが、大英帝国は植民地のほぼ全てを失い消滅することとなり、世界一の植民地大国の座を失って米ソの後塵を拝する国に転落した。, 1951年に再び首相を務め、米ソに次ぐ原爆保有を実現し、東南アジア条約機構(SEATO)参加など反共政策も進めた。1953年、ノーベル文学賞受賞。1955年にアンソニー・イーデンに保守党党首及び首相職を引き継がせ政界から退いた。, 父ランドルフ・チャーチル卿は、第7代マールバラ公爵ジョン・ウィンストン・スペンサー=チャーチルの三男で[9]、1874年春にマールバラ公爵家の領地であるウッドストック選挙区から出馬して庶民院議員に初当選した保守党の政治家であった[10][11]。母ジャネット・ジェローム(愛称ジェニー)はアメリカ人投機家レナード・ジェロームの次女だった[12]。1873年8月12日にワイト島のカウズ(英語版)に停泊したイギリス商船上のパーティーでジャネットとランドルフ卿は知り合い、3日後に婚約した。ランドルフ卿の父ははじめ身分が違うと反対していたが、ジェローム家が金持ちであることから結局了承し、二人は1874年4月にパリのイギリス大使館で結婚し[13][14]、ロンドンで暮らした[15]。, 1874年11月30日午前1時30分頃、父母の長男がオックスフォードシャーウッドストックにあるマールバラ公爵家自邸のブレナム宮殿で誕生する[16][17][18]。この日は聖アンドリューの日であり、ブレナム宮殿でマールバラ公爵主催の舞踏会が予定されていた[17]。結婚して7カ月半で長男を儲けたのだった[15]。スペンサー=チャーチル家の伝統で代父(祖父レナード・ジェローム)の名前をミドルネームとしてもらい、ウィンストン・レナードと名付けられた[19](以下、チャーチルと表記)。, チャーチルは12月27日にブレナム宮殿内の礼拝堂で洗礼を受けた[20]。新年を迎えるとランドルフ卿一家はロンドンの自邸へ帰り、乳母エリザベス・エヴェレストが養育した[20][21]。ヴィクトリア朝の上流階級では子供の養育は乳母に任せ、親と子供はほとんど関わりを持たず、時々顔を見るだけという関係であることが多かった。チャーチルの両親の場合、政界と社交界での活動が忙しかったので特にその傾向が強かった[22][23]。, 1876年にランドルフ卿は兄ブランドフォード侯爵ジョージと王太子エドワード・アルバート(後の英国王エドワード7世)の愛人争いに首を突っ込んで、王太子の不興を買い、王太子から決闘を申し込まれるまでの事態となり、イギリス社交界における立場を失った[24][25][26]。仲裁した首相・保守党党首ベンジャミン・ディズレーリからほとぼりが冷めるまでイングランド外にいるよう勧められたランドルフ卿は、アイルランド総督に任命された父マールバラ公の秘書として妻や2歳の息子を伴って1877年1月9日にアイルランドに赴任した[24][27][28]。, アイルランドにおいては公爵夫妻はダブリンのフェニックス・パークの総督官邸、ランドルフ卿一家はその近くのリトル・ラトラで暮らした[29]。チャーチルにとってアイルランドは「記憶している最初の場所」であったと回顧録で書いている[24]。, アイルランドでも引き続き乳母エヴェレストが養育にあたっていた[29][30]。チャーチルは乳母を「ウーマニ」と呼んで慕い、8歳になるまで彼女の側から離れることはほとんどなかった[9][31][30]。チャーチルは後年まで彼女の写真を自室に飾り[32]、「思慮のないところに感情はない(他人に冷淡な者は知能が弱い)」という彼女の言葉を謹言にしたという[30]。またこの頃から家庭教師が付けられるようになったが、チャーチルは幼少期から勉強が嫌いだったという[33]。1879年の大飢饉後、アイルランドの政治情勢は不穏になり、アイルランド独立を目指す秘密結社フェニアンの暴力活動が盛んになっていった。そのため乳母エヴェレストもチャーチルが総督の孫として狙われるのではと常に気を揉んだという[34][35]。, 1880年2月4日、弟ジョン・ストレンジがダブリンで生まれる。ランドルフ卿の子供はチャーチルとこのジョン・ストレンジの二人のみである[36][37]。チャーチルは基本的にこの弟と仲良く育った[38]。ただチャーチルが幼いころに集めていた1500個のおもちゃの兵隊で弟と遊ぶ時、白人兵士はチャーチルが独占し、弟にはわずかな黒人兵士しか与えなかったという。チャーチルは黒人兵士のおもちゃに小石をぶつけたり、溺れさせたりし、弟の黒人軍隊が蹴散らされて終わるというのがお約束だった[39]。, この直後に1880年イギリス総選挙があり、ランドルフ卿もウッドストック選挙区から再選すべく、一家そろってイングランドに帰国し、再選を果たした[36]。しかし保守党は大敗し、ディズレーリ内閣は総辞職し、マールバラ公もアイルランド総督職を辞した[40][36]。, 1882年、8歳を目前にしたチャーチルは、父の決定でバークシャー州アスコットの聖ジョージ・スクールに入学した[41][42][43]。, チャーチルはいわゆる「落ちこぼれ生徒」だった。成績は全教科で最下位、体力もなく、遊びも得意なわけではなく、クラスメイトからも嫌われているという問題児だった[44]。校長からもよく鞭打ちに処され[45][46]、チャーチル自身もこの学校には良い思い出がなく、悲惨な生活をさせられたと回顧している[47]。この学校の卒業生である作家モーリス・ベアリング(英語版)によると、チャーチルは食堂から砂糖を盗んだ廉で校長から鞭打ち刑に処された際、反省するどころか、校長が大事にしていた麦わら帽子を踏み潰すという暴挙にでたという。ベアリングは「チャーチルはあの学校にいた間ずっと権力と衝突してばかりだった」と語っている[48][45]。, 1884年夏、乳母がチャーチルの身体に鞭で打たれた跡を見つけて、母ジャネットの判断で退学した。アメリカ人である母はイギリス上流階級のサディスティックな教育方法に慣れておらず、鞭打ちのような教育方法を嫌悪していたという[46]。, つづいてブライトンにある名もなき寄宿学校に入学した[49][50]。この学校は聖ジョージ・スクールと比べれば居心地が良かったらしく、「そこには私がこれまでの学校生活で味わったことのない、親切と共感があった。」と回顧している[49]。この頃には父ランドルフ卿が保守党の中でも著名な政治家の一人になっていたので、その七光りでチヤホヤされるようになったことも影響しているとされる[51]。チャーチルは巷で自分の父が「グラッドストン首相のライバル」などと大政治家視されているのを聞いて嬉しくなり、この頃から政治に関心を持つようになった。学校でも「ノンポリはバカなのだろう」などと公言していた[52]。, 成績は、品行はクラス最低だが、国語(英語)、古典、図画、フランス語はクラスで7番目から8番目ぐらいだった[50]。乗馬や水泳に熱中し[53][52]、作文にも関心をもった[51]。, 父ランドルフ卿は1886年成立のソールズベリー侯爵内閣で大蔵大臣・庶民院院内総務に就任し、次期首相の地位を固めた。ところが同年のうちにソールズベリー侯爵に見限られる形で辞職、事実上失脚することとなった[54][55][56]。, 1888年3月、パブリック・スクールのハーロー校の入試を受けた。試験の出来はいまいちで、苦手なラテン語にいたっては氏名記入欄以外、白紙答案で提出していたが、元大蔵大臣ランドルフ卿の息子であるため、校長の判断で合格した。ただしクラスは最も落ちこぼれのクラスに入れられた[57][58][59]。スペンサー=チャーチル家は伝統的にイートン校に入学することが多いが、チャーチルは病弱だったため、テムズ川の影響で湿気がひどいイートン校は避けたとされる[58][51]。, ハーロー校での成績は悪かった[57][60]。「無くし物が多く、遅刻が多く、突然勉強し始めたかと思うと全くやらなくなる」という気分のムラが激しかったという[57]。ハーロー校でも校長から二回鞭打ちの刑に処された[61]。また当時のハーロー校では下級生は上級生に雑用として仕えなければならなかったが、チャーチルは上級生に反抗的だったため、上級生からもしばしば鞭打ちの刑に処されたという[62]。, しかしチャーチルはこの学校の軍事教練の授業が好きであり、射撃やフェンシングや水泳も得意だった[63][64][60][65][66]。また落ちこぼれクラスに入れられたおかげで難しい古典は免除され、英語だけやればいいことになったので逆に英語力を特化して伸ばすことができた[67][58]。「ハーローヴィアン」という校内雑誌に投書したり、詩も書くようにもなり、文章の才能を磨いていった[62]。, 当時のハーロー校にはサンドハースト王立陸軍士官学校への進学を目指す「軍人コース」があり、劣等生は大抵ここに進んだ。ランドルフ卿も成績の悪い息子チャーチルは軍人コースに入れるしかないと考えていた[68][64]。チャーチルが子供部屋でおもちゃの兵隊を配置に付かせて遊んでいる時に父が部屋に入って来て「陸軍に入る気はないか」と聞き、それに対してチャーチルがイエスと答えたことで最終的に進路が決まった[68][69]。, しかしサンドハースト王立陸軍士官学校も入試で多少の数学の知識を要求したため、ハーロー校在学中にチャーチルが二度受けた入試はともに不合格だった[68][64]。校長の薦めでチャーチルはサンドハースト陸軍学校入試用の予備校に入学した。出題内容や傾向をかなり正確に分析してくれる予備校であり、チャーチルによれば「生まれつきのバカでない限り、ここに入れば誰でもサンドハースト王立陸軍士官学校に合格できる」予備校だった[68][70]。, 18歳の時の1893年6月、サンドハースト王立陸軍士官学校の入試に三度目の挑戦をして合格した。しかし成績は良くなかったので[注釈 1]、父が希望していた歩兵科の士官候補生にはなれず、騎兵科の士官候補生になった[71][72]。騎兵将校はポロ用の馬などの費用がかかり[73]、そのため騎兵将校は人気がなく成績が悪い者が騎兵に配属されていた[68]。, こうして幼時から軍隊に憧れていたチャーチルはヴィクトリア女王の軍隊の軍人となった[71]。数学や古典に悩まされることはなくなり、地形学、戦略、戦術、地図、戦史、軍法、軍政など興味ある分野の学習に集中することができるようになった[72][74]。とりわけアメリカ独立戦争と普仏戦争に強い興味を持った[74]。, ただしこの頃、父の家計はかなり苦しくなっており、チャーチルに十分な仕送りはできなくなっていた[75]。そのためチャーチルも馬のことで随分苦労し、将来の将校としての給料を担保に借金して馬を賃借りしている[76][74]。, 1894年12月に130人中20位という好成績で士官学校を卒業し、オールダーショット駐留の軽騎兵第4連隊に配属された[77][78]。, 父ランドルフ卿は梅毒に罹り、健康状態は数年前から悪化し続けていた[79]。ランドルフ卿は1894年6月に最後の思い出作りでジャネットとともにアメリカや日本などの諸外国、また英領香港、英領シンガポール、英領ラングーンなどアジアのイギリス植民地を歴訪する世界旅行に出た。この両親不在の間にチャーチルは医者から父の詳しい病状を聞き出し、父が助かる見込みがないことを知らされたという[76]。父は帰国直後の1895年1月24日、45歳で死去し[72]、首相ら大物政治家が列席した[77][80][注釈 2]。チャーチルは「父と同志になりたいという夢、つまり議会入りして父の傍らで父を助けたいという夢は終わった。私に残された道は父の思い出を大切にし、父の意志を継ぐことだけだった」と書いている[77][82]。父の死によって家長となったチャーチルは、逼迫したチャーチル家の家計をしょって立たねばならなくなった。父が晩年にロスチャイルド家から融資を受けて購入していた南アフリカ金鉱株は南アフリカ景気で20倍に高騰したが、しかし相続した借金の返済に充てられた[73]。, 同年7月には乳母エヴェレストも死去し、チャーチルは「私の20年の人生で最も親密な友人だった」と評して悲しんだ[82][83]。彼女の葬儀はチャーチルが一切を手配した[80]。, 父の死の翌月からオールダーショットに任官し訓練を受けたが、自由主義と民主主義の発展の結果、戦争はなくなるのではないかと考え、すでにこの時に軍人は「私の生涯の仕事ではない」と考えるようになっていた[84]。, 騎兵将校になったチャーチルは、戦争が起きる気配がないことを残念に思い、ナポレオン戦争時代に生まれたかったとよく愚痴をこぼしていた[85]。そんな中の1895年、スペイン領キューバでスペインの支配に抗するマクシモ・ゴメスやホセ・マルティらの反乱が勃発した(第二次キューバ独立戦争)。関心を持ったチャーチルは軍から2ヶ月半の長期休暇をもらい[注釈 3]、さらにスペイン政府にキューバの反乱鎮圧に協力したいと申し出て、キューバ渡航の許可を得た[85]。, こうして1895年11月初め、同僚レジナルド・バーンズとともにキューバへ向けて出港した。途中ニューヨークに立ち寄り、母方の祖父レナード・ジェロームの友人であるアメリカ下院議員ウィリアム・バーク・コクランから歓迎された[87][86]。チャーチルは政界進出の野望を持っていたので、コクランから演説手法について色々と手ほどきを受けた[88]。またコクランの紹介でニューヨーク市内の各所を見学したが、とりわけ裁判所に驚いた。法廷が普通の部屋であり、裁判官も検事も弁護士もイギリスのようにカツラや法服を着用せず平服で出廷してきたからである。チャーチルは「伝統や威厳などまったくなかった。それでも絞首刑判決を下せるというのは、大したことだ。」と感心している[88]。, キューバに到着した後はスペイン軍と行動を共にした。チャーチルはこの従軍中にキューバ製葉巻と昼寝の習慣を身につけたという[89][90][91]。またこの戦争中、チャーチルは『デイリー・グラフィック』紙と特派員契約をしており、報告書を同新聞社に送り[86][92]、特派員として戦地に赴くことは、いい小遣い稼ぎになることを知った[93]。, 21歳の誕生日である1895年11月30日に初めて実戦経験を得た。道で朝食をとっていたところ、ゲリラの銃弾が顔のすぐ近くをかすめ、敵はすぐに姿を消した[93][92][94]。数日後にも銃撃戦に遭遇し、敵は30分ほど銃撃を続けて撤退した。チャーチルは戦功を立てることはできなかったが、初めて戦死者を見た[95]。, チャーチルは圧政に抗しようという反乱の精神には一定の理解を持っていたが、ゲリラの野蛮な戦法は嫌っており、それに勇敢に立ち向かうスペイン軍人たちを尊敬していた[89][90]。またスペイン軍人と話しているうちにスペイン人は決してキューバ人を憎んでおらず、イングランド人がアイルランド人に対して持っているような感情をキューバ人に対して持っていると考えるようになった[89]。, イギリスに帰国したチャーチルは、ますます苦しくなっていた家計のために更なる従軍経験と特派員としての原稿料を渇望し、オスマン=トルコ帝国の支配に抗して蜂起したクレタ島、ジェームソン侵入事件(英語版)が発生した南アフリカなどに特派員として赴く事を希望し、母を通じて各方面に手をまわしたが、実現しなかった[96]。, 1896年冬に第4女王所有軽騎兵連隊とともにチャーチルはイギリス領インド帝国に転勤となった[97][91]。インド駐留のイギリス軍将校はまるで王侯のように暮らし、日常生活をすべてインド人召使に任せていたが、チャーチルもそのような生活を送った[97][98]。インド人召使はかなり薄給で雇うことができるが[98]、困窮していたチャーチルはインド人金融業者から借金している[97]。, インドは平穏だったのでチャーチルは、アリストテレスの『政治学』、プラトンの『共和国』、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』、マルサスの『人口論』、ダーウィンの『種の起源』、マコーリーの『イングランド史(英語版)』など多くの読書をした[99][100][101]。, インド勤務時代に唯一参加した実戦は、1897年夏にインド西北の国境付近で発生したパシュトゥーン人の反乱の鎮圧戦だった。この反乱が発生するとチャーチルは鎮圧に派遣されたマラカンド野戦軍に入隊を希望し、はじめ新聞の特派員、将校に欠員が生じた後にはその後任として戦闘に参加した[102]。しかしチャーチルは勲章を得ようと焦るあまり、しばしば独断で無謀な行動に出たため、やがて帰隊させられた[103]。, この時の体験談を処女作『マラカンド野戦軍物語(英語版)』としてまとめた。この作品の評判が良かったため、チャーチルは続いて『サヴロラ(英語版)』という地中海沿岸の某国の革命運動を舞台にした小説を書いた。これも好評を博し、かなりの収入になった[104][105]。, この頃、イギリスではスーダン問題が再浮上していた。スーダンはイギリスの傀儡国家エジプトの属領だったが、1881年に発生したマフディーの反乱により、時の英国首相グラッドストンが放棄を決定して以来、マフディー軍の支配下に置かれ、英国支配から離れた独立国家となっていた。しかしロシアとフランスのエチオピアへの野心が高まる中、首相ソールズベリー侯爵はそれに先手を打つべく、エチオピアに隣接するマフディー国家への侵攻を決定した[106]。, チャーチルは従軍を希望し、『マラカンド野戦軍物語』を高く評していた首相ソールズベリー侯爵と会見できたのを好機としてエジプトの実質的統治者だったイギリス駐エジプト総領事クローマー伯爵を紹介してもらい、従軍が許された[107]。この戦争でもモーニング・ポスト紙と特派員契約を結んだ[108]。, 1898年8月にホレイショ・キッチナー将軍率いるイギリス軍に加わって、ナイル河を遡って進軍[107]、9月1日にはマフディー国首都オムダーマンを包囲し[109]、翌9月2日、マフディー軍4万が打って出てきて、オムダーマンの戦いが始まった。キッチナー将軍は第21槍騎兵連隊に突撃を行わせたが、これは歴史上最後の騎兵突撃とされる[110]。チャーチルはインド勤務時代に肩を脱臼していた関係で、剣ではなく拳銃を使用して突撃したため、比較的安全に戦うことができた[111][112]。戦いは多くの戦死傷者を出しながらもイギリス軍の勝利に終わり、マフディー国家は滅亡し、スーダンはイギリスとその傀儡国家エジプトの主権下に戻った。, インドの第4女王所有軽騎兵連隊に帰隊したチャーチルは、今回の戦争についてまとめた『河畔の戦争(英語版)』を著した。この著書の中でチャーチルはキッチナー将軍を批判的に書いている。特に戦い方が犠牲を問わなすぎることや、兵士たちがマフディー国家の建国者ムハンマド・アフマド[注釈 4]の墓を暴いたのを止めなかったことを批判している[注釈 5]。しかし、この本を読んだホレイショ・キッチナーは自分を批判した本の内容に激怒し、遺恨が生じた。このことは後々チャーチルに祟ることになる。, 1899年春に陸軍を除隊した[115]。騎兵将校は経費がかかるし、文筆で生計を立てていく自信が付いたためであったといわれる[112]。, 1899年6月にオールダム選挙区の庶民院議員補欠選挙に保守党候補として出馬した[116]。オールダムは繊維産業の町で労働者が有権者の中心だったため、保守党としてはディズレーリの「トーリー・デモクラシー」の継承者を自任していたランドルフ卿の息子を候補にした[117]。 17歳になったナージャは、ダンデライオン一座の解散を経て、恋人のフランシスが再興させたアップルフィールド孤児院に戻ってくる。. The River War: An Historical Account of the Reconquest of the Sudan (河畔の戦争:スーダン侵攻従軍記) , 『A History of the English-Speaking Peoples (英語圏の人々の歴史)』1956-1958年。4巻。第二次大戦前から著しており、英米の連携強化を意識して「英語圏の国民の歴史上の地位と性格を探る」とした著作であり, 『チャーチル―第二次世界大戦の指導者』 山上正太郎、清水書院「センチュリーブックス 人と歴史シリーズ〈西洋〉」、1972年。, 『チャーチルと第二次世界大戦』 山上正太郎、清水書院〈人と思想〉、1984年、新装版2018年。上記の改訂版。, 『祖父チャーチルと私 若き冒険の日々』 ウィンストン・S・チャーチル、佐藤佐智子訳、. 2003年放送『明日のナージャ』の続編二次創作小説。. The Story of the Malakand Field Force (マラカンド野戦軍物語) . 今、あなたは幸せだと思う? 本日限定!ブログスタンプ あなたもスタンプをgetしようはい幸せです私はおばあちゃん子でした中学生になるまで一緒のベッドで寝て… サー・ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチル(英語: Sir Winston Leonard Spencer Churchill, KG, OM, CH, TD, PC, DL, FRS, Hon. 共に育った仲間たちは既に去り、先生たちもいなくなって……。. 1914年6月のサラエボ事件を機に7月終わりから8月初めにかけてドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国対ロシア、フランスの第一次世界大戦が勃発した。 1914年、秋。 雪が白い薔薇の花びらのように舞い、あの日々が、音楽となって蘇る。 イギリスのとある田舎町。 アップルフィールド孤児院に通ずる小高い丘で、一人の女性が踊りながら上がっていく。 灰色の空、白い雪、そして、茶色い荒野。見渡す限りの、寒い色をした景色。

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